先が見えない、先が見えないと言い、これが商店街に限らず、若者その他の悩みのように言われがちですが、私はちょっと違うんじゃないかと思うんですね。先が見えない不安というよりは、先が見えてしまうことへの閉塞感といった方が正確なのではないでしょうか。何をやってもたかが知れているとか、どうせ社会はこうなっているとか、もうここまで来ちゃっている以上、いかんともしがたいとか、そういった閉塞感。
そこで私は先が見えないものこそを歓待する態度、結果が見えないことに賭けてみるという体験をすることで、社会は活性化するということを何とか証明できないかと考えています。アートや文化に直接的な価値があるとすれば、とりあえずこれじゃないでしょうか。
アート・プロジェクトの事例ではもちろん、こうした「なんだかわからないけどやってみよう」「やらないよりはやった方が何かあるかもしれない」と、いわばアーティストに乗せられて事に踏み出す、というケースが多々みられるわけですが、これを数値化していくといいかもしれません。
そうした意味では先駆的な取り組みとして、大阪大学の2004年の研究結果からとあるグラフを参照してみたいと思います。
このグラフは、宝くじの当選確率を横軸にし、右へいけばいくほど当たる確率が増していきます。右端は絶対当たる、ということですね。逆に左端は絶対はずれる、と。縦軸はこれに対して人がどう反応するかを難しい数式に入れて計算したもので、その確率に対して危険を回避するようにふるまうか、それともあえて危険に挑むようにふるまうかを示す危険回避度です。上にいけばいくほど危険回避的にふるまい、下へいくほど危険愛好的にふるまいます。
この調査結果からわかることは、人は当たる確率が3割以下になると、危険愛好的にふるまうということ、すなわち、成功する確率が3割以下になると、「どうせ失敗してもともと」と開き直るわけです。
もともと市民からの運動の場合、「重要なのは失敗できることだ」などということが立派な発言として口にされるのですから、どうせなら成功確率3割以下のプロジェクトとして、みんなで危険愛好的にふるまうことで、賭けに出る。これによって、成功すればもうけものですし、失敗しても連帯感やいい意味での反省が生まれれば、それはそれで「成功」と言ってしまうこともできそうです。要は危険愛好的にふるまわせるだけのモチベーションがあるか、それをつくれるか、ということですよね。黙っていても成功率3割以下の「先の見えている閉塞感」にいる以上、「どうなるかわからない」アート・プロジェクトに賭け、一攫千金をねらってみようと挑発していく。それがアーティストや文化施設の役割、ということでしょうか。
最後に、「多面的な評価」について説明したいと思います。
ここまで説明してきた「他者との出会い」や「先の見えないもの」を持ち込むということは、ある意味きっかけなわけです。これらを評価し、位置づけていくことが、継続していく上でも、またやったことが「やっぱりやかったんだ」となるという意味でも大切なことです。価値をつくる、ということですから、もしかしたらこれが一番難しいかもしれません。アーティストにとっても「他者」として現れたり、「先の見えないもの」に飛び込ませたり、というのは案外できそうですが、この評価というのが苦手なんじゃないでしょうか。すでに定まった評価を追うのではなく、まだよくわからないものをどう評価し、多くの方に説明していくか、これこそがこれからの文化施設などに求められることかもしれません。
例えば、一見、ムダと思える交流の場や時間を、そのまま「ムダ」と評価すればムダなわけですが、そのまちやそこに住む人の「豊かさ」や「多様性」の表れと読み替える解釈力があれば、それは「豊かさ」や「多様性」といった価値になるわけです。
これをアンケートやインタビューなどを行い、ドキュメントや講演その他といったかたちでまとめていくことで、新たな価値をつくりだしたり、評価をつくっていったりできると考えています。会話に「多様性」が生まれたとか、今までになかった「豊かな」関係性が生まれた、当たり前だと思っていたものを「資源」と認識するようになったといった項目はそのわかりやすい例でしょう。それを多くの方にわかってもらえるかたちでまとめ、開示し、文化資本の増大としてアピールしていくことが、これまでになかった経済的なインセンティブ以外の非金銭的インセンティブとでもいうべきものを増大させ、社会を新たな面から豊かにしていくための方法につながると考えています。
みなが同じ目的、例えば真新しいショッピングモールや最先端の設備を備えた文化施設をもてれば幸せで、そうでなければしかたなしにあるもので我慢している、というような状態であれば、それは非常に貧しい状況です。目的や価値が多様化し、あらゆる人が、あらゆるまちが、それぞれの指標でもって豊かさを語れるようになってはじめて、豊かさは訪れるのではないかと思います。それぞれの目的や価値をそれとして気づかせたり、あるいはつくっていくのは芸術・文化の数少ない使命だと思います。
今日は、そうした価値の多様性、例えば、ゴージャスでもない、セレブでもないまちで、有名でもハイアートでもないアートでもって、それぞれの場所性や関係性を見出していける、つくっていける、というような話をしたかったのですが、いかがでしたでしょうか。つたない話でしたが、最後までおつきあいいただき、まことにありがとうございました。
(つづく)
今年もきらゆめは張り切ってやります。また門脇さんにも協力をお願いできればと思っていますので、どうぞよろしくお願いします!
春の「きら夢」も楽しみですねー
もっと短いと思いうかつにテキスト化を始めてしまったのですが、思いのほか長く、「きら夢」ブログのたいへんな邪魔になっているのが気になります。あと考えますのでよろしくお願いいたします。