2009年09月06日

門脇からのメール

お疲れ様です。


絵本の方、先日の内容をページに落としてみました。

また、これまでちょっと集めていたコミュニティアート城にかかわる人の発言とかもまとめてみました。

***********************

●下山発言(テキスト)

「コミュニティアート城」プロジェクトは、プロセスを重視するコミュニティアートの面白さや特徴を分かりやすくナビゲートする「作品」となります。

このプロジェクトには、コミュニティアートシーン自体のトピックをいろいろと盛り込んだ「叙事詩」のようなものをつくろうともくろんでいます。

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」

コミュニティアート城のためにあるような言葉です。

か弱い庶民にとっての「城」とは、人のご縁そのものなのです。

僕は、コミュニティアートのプロデューサーであり、アクティビストです。

1年365日、起きて意識がある時間のほとんど、プロデューサー/アクティビストとして考え、行動しています。

お金になるとかならないとか、やらなければいけない仕事の有無、などはまったく関係がありません。

自分自身がプロデューサー/アクティビストとして生きる時間を積み重ねることが大事だと考えています。

お話や文章で他人を騙すことはできても、自分自身の思考・心は自分を騙せません。

スキル以前の、心の問題です。

これは、神様にだけ届ける祈りの行為にも似ていますし、信仰心と言っても良いような気がします。

※シモヤマは特定の宗教の信者ではありません。



シモヤマです。

古川の「コミュニティアート城」も楽しみですね!
5月23日(土)なら行けそうなので、ぜひ見に行きたいです。

門脇さんに新しい「物語」のお知らせです。

ダイヤモンドポイント会は、「社会貢献できるポイント」という点が特徴です。
http://www.diamond-service.jp/
<サイトより引用>
◆社会貢献できるポイント会(平成15年3月現在)
105円のお買い上げごとに1P(ポイント)もらえ、360Pが貯まると加盟店で500円のお買物ができます。また、そのポイントを使用してお買物をすると、500円のご使用ごとに15P(20円相当額)がボランティアポイントとして積み立てられます。この積み立てられたボランティアポイントは、地域で活躍されているNPO団体等の活動に役立てられます。
ダイヤモンドポイント会は、下記の3団体(NPO)と協力して、船橋の街をより良くする様、また、地域の皆様が少しでも住みやすく暮らしやすくなる様、微力ながら一生懸命貢献してまいります。
<引用終わり>

コミュニティアート・ふなばしも、このポイントをいただいています。
先日のコミュニティアート・ふなばしのミーティングで、「このポイントで三番瀬の海苔などと交換して他の地域のアートNPOのプロジェクトで使っていただいてはどうか?」というアイディアが出ました。

具体的には、低所得層の子ども向けにワークショップをしている、横浜のOVAや、大阪西成で路上生活者に配食をしているCOCOROOMです。
http://artlabova.org/
http://www.kanayo-net.com/cocoroom/index.html

8月のお盆には、COCOROOMが参加している西成の夏祭りのお手伝いに行こうかと思っております。



コミュニティアート・ふなばしは、船橋市本町通り商店街が運営しているポイントカード「ダイヤモンド・ポイント」から、NPOへとカードのポイントの寄付をいただいています。
先日のミーティングで、「いただいたダイヤモンド・ポイントを船橋産の海苔と引き替えてもらって、その海苔をココルームで使ってもらおう」というアイディアが出ました。
西成にあるインフォショップ・カフェ・COCOROOMでは、「夜回り」といって、西成の路上生活者の方々に食事を届けるサービスを実施されています。
この時に配るおにぎりに、船橋産の三番瀬の美味しい海苔を使ってもらったらステキでしょ?
しかもその海苔は、船橋市本町通り商店街が地域のNPOを支援するためにくださったポイントで引き替えたもの。

↑と、こんな「お話」も、「コミュニティアート城」のエピソードの一部になると楽しいなー、なんて妄想しています。



5月16日の、「コミュニティアート城」プロジェクトのメンバーが、続々と増えてます。

今日のミーティングでは、赤木くんと中川くんとガッツリ打ち合わせをしました。

彼らは、山浦くんと同じく、現在就活の真っ最中ですが、忙しい時間を縫って、参加してくれます。

彼らには、共通した特徴があります。

・行動力がある。
・好奇心が強い。
・優しい。
・粘り強い。
・発想がユニーク。
・表明には現れない物事の本質を見ようとする。

22歳〜23歳くらいで、このような頼りがいがあり、魅力的な男の子がたくさん出現しています。

最悪な社会情勢のなか、現れた、宝物のような若者たち。

これは、何の予兆なのでしょうか?



「学生ボランティア」に関する、ウソとホント。
そのそろ決着を付けたい、このトピック。

「学生は、いいかげんだからダメ」
「学生は、甘えている」
「学生は、(さまざまな)スキルが低い」

などなど、学生ボランティアを受け入れた人たちから出てくる否定的なコメント。

片や、多数の学生ボランティアによって、大成功を収めているプロジェクトも多数。

どこが違うのでしょうか?

それは、「専門家の存在」です。

ボランティアコーディネーター。

そして、専門家によって設計された、ボランティアが活躍しやすいシステム。

これがあって、はじめて、ボランティアの実力が発揮されるのです。

シロートが無計画に手を出して、失敗し、ボランティア自体のイメージを悪くする。

そんな時代は、そろそろ、終わりなのでございます。

団体・チームによって、ボランティアを活かす能力は、大きな差があるので、その辺の見極めをきちんとしなければいけません。

学生に限って言えば、18歳から22歳までの学部生、それ以上の院生、高校生では、すべて特性が異なりますし、おなじ18歳でも、学部生と高校生では、まったくアプローチが違います。

知識と経験がある、ボランティアコーディネーターを専門職として置く。これが、ボランタリーなプロジェクトにとって、最重要課題だと認識しましょう。

ボランティアに興味がある学生の皆さん、学生ボランティアに否定的なコメントをする団体・プロジェクトは、以上の認識がなく、マネジメント的にうまくいっていないケースがほとんどです。

ボランタリーな社会的プロジェクトは、めちゃくちゃおもしろいです。それにも関わらず、現場に学生がいない、というのは、どこかおかしいと見た方が妥当です。

いずれも、避けた方が賢明です。




●佳美発言(テキスト)
5/24
門脇様、皆様

お疲れ様です。佳美です。
きらゆめ、お疲れ様でした〜。
〈ひなたぼっこ〉も大盛況でして、コミュニティアート城の完成の
実物を見られずに残念です…。
画像では十分楽しませていただきました。
また、プラダンの会社での掲載も嬉しいですね。

さて、秋のきらゆめについてですが、11月14日(土)です。
先日、商店街事務所の徳光さんに確認したところ、それで決定
とのことでした。おそらく、よほどのことが無い限り、変更はない
と思われます。
できましたら、下山さんから川勝さんにも聞いてみていただけ
ますか?

それと、江美子から嬉しい話がありました。
先日、きらゆめの後に商店街を歩いていたら、セレクトショップで
ご協力いただいた、陶芳さんの奥様から声をかけられ、「この前
は来てくれてありがとうね。」と言って、お箸を2膳いただいたとの
こと。彼女の雑貨入れに無造作にお箸が入っているのを発見し、
聞いてみたらそんなやり取りがあったとのことだったのです。

こうやって小さなつながりが出来るのが、とても嬉しいと思います。

また、〈ひなたぼっこ〉の新しいボランティアの女性は24歳で、3月
にカフェから3分くらいのところに引っ越してきたとのことなんです。
まさに本町通りガールズにうってつけの可愛さ。
…というわけで、本町通りガールズ応援団の勧誘をしてみたら
とても喜んでくれました。徳光さんや松本さんとも連絡を取りながら
こちらも地道に進めて行きたいなあ、と思っております。



●蔵本発言(テキスト)

先週末は土日で船橋のきらゆめと、西千葉のちいけんに参加。千葉DAYS。まちを歩いていると、見知った顔をぶつかるので、なかなか前に進めないのとかっていいですよね。


写真は土曜日のきらゆめ。門脇篤さんに来ていただいて、コミュニティアート城をつくる、というプログラム。1年半前に手伝ってくれた中川くんが、今日はわたしに指示出しで、なんかうれしかったっす。成長してるなー、って(笑)
城も予想外の盛り上がりで、ちかくでわたしは本町通りのセレクトショップを担当。絶妙のトーク?で売り上げも上々でした。すぐとなりではコバルト爆弾によるDJブースが。ちっさい子どもさんがグルーヴに乗りまくりでたまげました(笑)
写真は、完成した「城」。中にも入れてかなりの力作でした。

一日スクランブル交差点のちかくでお店を広げていると、地域新聞の記事を持ってやってきた人に道を聞かれたり、毎回クイズラリーに参加してくれている親子さんからラリーポイントを聞かれたり、といろいろ。きらゆめって結構根付いてるんだなー、と、あらためて思いました。たのしかったです。



●商店街の声

大事なのは、聞こえない音なんです  半田電気



●門脇テキスト

コミュニティアートとは、ツールではなく、ソウルである。
コミュニティアートとは、社会をどうにかしたいという気持ち、こころざし、実際の行動のことであって、コミュニティというシステムをどうこうするための方法論ではない。
私はいつになっても、自分がどうしたらいいのかばかりを気にかけている。自分が何なのかを、どうなのかをばかり、気にしている。そこに答えなどない。私はいつになっても、リアルに届かないだろう。何かを何かに置き換えるような生き方しか、できないだろう。
どう生きていけばいいんだろう、どうしたらいいんだろう、というところから答えは生まれない。なぜこんなことになっているの、どうにかしなきゃ、という無我夢中の取り組みそのものが、生き方なのだ。それは方法ではない。それそのもの。何かを何かに置き換えるのではなく、それ自体、それそのものを投げ出すものである。
それ以上にリアルなものなどない。



「まちづくり系アート」とか「まち系アート」というくくりで、時にはおそらくは否定的な意味合いから語られる一連の取り組みがあって、私自身、その中でやっているわけだけれど、なぜそうなのかというと、私はそれが「リアルだから」だと思っている。

「まちづくり」という言葉は、かなり行政的な用語なのだそうだが、そうしたものを離れて私なりに考えてみると、それはまず「まちおこし」的なものとは別のものだと言えると思う。似て非なるものというか、「まちづくり」は日常的な営みであって、イベント的なものではない。内部的な取り組みであって、外部へ向けたものではない。だから指標としては、どれだけ売り上げがあったかとか、どれだけ人が来たかというのではなく、コミュニティ内がどれだけ活性化したか、つまりどれだけ仲良くなり、ものが言いやすくなったり、助け合うようになったか、が評価基準となる。

もうひとつ、理解の手がかりとなるのが「地域(地縁)型/都市型」という捉え方で、ただそこに住んでいるとか、ただ関わってしまったというだけでその地域やコミュニティのことを考えることが必然的な生き方やあり方を、地域的・地縁的なあり方、そうではなく、好きなときに好きなことをすることが基本というのが都市型のあり方だとしよう。それらは別に地方に地域型の生き方があり、都会に都市的な生き方があるという風に対応しているわけではなく、もちろん田舎にも都市型の生き方をしている人はいるし、都会にも地域型の生き方をしている人がいる。それらはあまりに基本的なあり方だと思われているので、両者が出合わなければ意識もされないし、出合っても「変な人だ」とかいう風にしか問題にされないかもしれない。「まちづくり」はもちろん、地域型の生き方をしている人にとってのテーマであって、都市型の生活をしている人にとっては「まちおこし」としてしか認識できないかもしれない。

ところで、こうしたあり方は別に歴史的なものではなく、ずっとそうだったのだろうと思う。ただ近代以降の急激な大量生産・大量消費、その後のスローライフ、エコライフの流れを見ると、これら両者をそれぞれに対応させてしまいたい誘惑にかられる。

例えば、都市型の生活における代替可能性。どこへ行っても同じサービスが同じ価格で受けられる、快適で均質な空間を世界にはりめぐらせるグローバリズムは、世界を相対化し、どこにいっても共通した価値基準のようなものを構築しつづけようとしている。それは資本主義のもつダイナミズムであるとともに、近代のもつ病理でもある。

一方の地域型の生活における唯一性。何もかもが唯一の「この性」をもつ、非対称で不均質で非効率な空間。時にめんどうになってそこから逃げ出したくなるような重たい重力をもった世界。しかし、スローライフやエコ、そしてまちづくり的なものが取り戻そう、再評価しようとしているのは、この重たいリアリティをもった世界なのだと思う。

アートにおける近代も、こうした枠組みでとらえるとするなら、美術館やギャラリーといった抽象的でニュートラルな空間を想定し、永続性のようなものに価値を置く、きわめて都市型のもの、作家性というような空想概念に依存した内部完結風な存在だといえるのではないか。確かにそれは美しいし、ある意味おもしろく、意味があるけれど、言ってみればバーチャルで壊れやすく、独善的だと思う。

これに対して生まれた、または生まれつつあるカウンターパートとしてのアートは、一回性や唯一性、場所性に依拠している。それこそがリアリティのよって立つところだから、必然的にそうならざるをえないわけで、内部で完結した首尾一貫した世界観などを構築するのではなく、多様な価値によりそってさまざまな視点を提示したり、つきはなしたりする。だからそこでのルールは常に流動的であり、原初的な意味での「遊び」に似ている。ここにリアルが宿る。

誰かが設定した首尾一貫した世界、ルールのようなフィクションのあとに置かれたまちやアートは、そうしたひとのつくった「神話」にリアリティを感じることができない。成功体験も不幸も、みんなバーチャルなものに感じられる。リアルなものは、すべて自分の生活の中にのみ存在する。そこで日々行われる新たなルールづくりやその変更、首尾一貫しない主張や営みなどにこそ、かえって信頼を置いてしまう。

だから、結局はいったい私は、私たちは何がしたいのか、ということなのだと思う。

売り上げを上げてばんばんお客さんを呼びたいのか、首尾一貫した私だけの世界を構築したいのか、経済的には苦しい中でも自分なりの生きがいをもっていきたいのか、さまざまなものを見せたりいっしょに体験することを楽しみたいのか。

どれも間違っているわけではない。視点や機能が違うだけなのだ。たくさんの可能な世界があって、しかしあると想定するだけではそれは現実のものにならない。私は何がほしいのか、私たちは何に価値があると思うのか、つまり何をリアルだと思うのか。
posted by きらゆめ事務局 at 23:50| 千葉 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ○きらゆめ門脇篤の本町ふれあい日記(ブログ編) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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